私が経験した震度6
突然目が覚めた。揺れても揺れても終わらない。何が起きているのか分からない。怖い…
私が体験した阪神淡路大震災の記憶です。
【1995年1月17日5時46分】
最初は少しの揺れで目が覚め、関西では珍しくないいつもの地震かと思っていました。
しかし、いつもならすぐ終わるはずの揺れが終わらず、どんどん強くなり経験したことない揺れに変わりました。縦にも横にも揺れ、身動きが取れず寝たまま固まるしかありませんでした。
5分にも10分にも感じられたあの記憶は、調べてみるとたった1分程度(強い揺れは15秒程度)だったそうです。
たった1分程度のこと。
揺れが収まり、私は自室を出ようとしましたが部屋の入口に置いてあった家具が倒れて自力で部屋から出られませんでした。
姉も部屋から出た所でガラスが散乱していたので移動が出来ず。ガラス散乱した上に座布団等を敷いてやっとリビングに移動することが出来ました。
兄は、父が見に行くと寝ていたので起こさず。暫くしてようやく部屋から出てきたと思えば「夢かと思った」と言っていました。
それからの一ヶ月、身の回りのことが一変しました。
困ったのは、水道が出ない、ガスが使えないことでした。
小学校に来ていた給水車の行列に並んでタンクに水を入れて貰ったものを自宅まで運びました。給水車は行列分の人数分も運んで来れず、次の給水車が到着するのを待ちました。水が出る公園があることを知ってからはそこに汲みに行くようになり、少し快適に過ごせるようになりました。
また、ガスも水道も出ないのでお風呂が入れませんでした。徐々に復旧した友人宅や親戚宅から入りにおいでと言って貰えるようになり、自宅が復旧するまでの間の数回行かせて頂いてお風呂に入れた時はとにかく嬉しかったです。
衝撃的で今でも目に浮かぶ光景は、遠くの方で煙が上がっているのが数日見えていたことです。
自宅近くでの火災はなかったですが、ご近所の方が「6時に灯油ストーブをタイマーセットしていたから、もし地震が6時以降にあった場合はどうなっていたのか…」と話されていました。
全壊だったお宅は、見た目には分からなくても家の下に亀裂が走ったために家屋が歪み建具が開かず玄関ドアを開けることすら出来ずに地震直後は困ったと言っていました。
今考えると、地震後も外に出ることもなくそのまま自宅で過ごしていたことから、防災意識はかなり低かったと思います。タンスなど倒れたり、割れるものは殆ど割れましたが、家族は誰も怪我が無く、家屋も一部損壊程度だったのは奇跡のようなことだったのかも知れません。
当時はまだ中学生だったので私はのほほんと過ごしていましたが、大人は本当に大変だったと思います。
篠田社長からの防災についての話を受けて、山口県は大丈夫だろうと思ってしまっていた自分は甘いと思い防災用品等確認し、ストック用品買い足しました。
ブログを読んで頂いた方の防災対策等に少しでもお役に立てることがあればと思い、当時の記憶を思い返して書かせて頂きました。
投稿者:ポータルハートサービス F